ひまわりの花をもう一度咲かせよう!!
コソボ難民救済のための国際ボランティア・プロジェクト
アピール



1999年4月3日14時10分

ヴァム(ベルジグにまだ滞在中)

親愛なる友へ

 僕のことを知らない人達のために簡単な自己紹介を。僕は現在43歳のオランダ人で、1995年 のデイトン合意以後、旧東独地区で暮らしている。1991年の終わりごろからデイトン合意までのあいだは、基本的にクロアチアとボスニアに居た。いわゆるボランティアの平和活動家としてそこで働いていた。(僕は当時オンライン日記を書き続けていた。それは今でもウエッブ上にある。興味があれば、サーチエンジンで“ザグレブ日記” を検索してみて欲しい。色々な活動をしてきたよ。僕はエレクトロニック・ユーゴスラビアン・ワイド・ネットワーク、‘ザミール(平和のために)’と難民キャンプにおける草の根のボランティア人道的援助団体、‘サンクロケット’(地元の言葉でひまわりを意味する)の共同設立者の一人だったし、また、パクラック・ボランティア・プロジェクトという1991年のクロアチアでの戦争によって引き裂かれた西スロベニアの小さな町を再建するプロジェクトの共同設立者でもあったんだ。

 なぜ今僕がこうして君たちに向けて書いているかといえば、それは‘サンクロケット(ひまわり)’のような活動を再結成したいと思っているからだ。現在までのところコソボからの難民は200,000人を越えていて、さらに多くの難民がこの後に続くことが予想されている。今回世界各地からの大小の人道主義的な団体が直面する困難を君たちは日々まの当たりにするだろう。必要最低限の援助ですら全ての難民に行き渡らせることは不可能に近い。もちろん、この問題は基本的に大組織が解決できることではあるには違いないけれど、一人一人が率先して始める小さなことも、現地の人々の助けとなりうるんだ。

 けれどもクロアチアとボスニアとの戦争の時と同じく、難民の援助といえば、基本的に彼らに屋根と食料と医療用品を与えておいて、戦争が終わるまで彼らを難民センターで待たせておくということを意味する。8年前の旧ユーゴスラビアの戦争に関わってきた人間なら誰もが知っているように、アルバニアやモンテネグロ、マケドニア(さらにもっと遠いところ)で現在暮らしている難民たちはかつて暮らしていた場所にすぐに戻ることは出来なかった。早くて数カ月、長ければ何年もかかるんだ(ボスニア戦争の難民の多くがそれ以前に暮らしていた町に今でも戻ってはいない。彼らが戻れるようになるまでにはまだ数年はかかるだろう)。

 戦争での暴力のトラウマと悲惨な経験のあとに、難民はキャンプでただ待つことになる。7年間僕が書いてきたように、ボスニアからキャンプにやってくる子供たちが幸いにも戦争から精神的衝撃を受けていないとしても、その後始まるキャンプ生活のなかでそれを体験することになる。だから僕たちは1992年の5月からクロアチア反戦キャンペーンとして、ボランティアの人たちを世界中から集めたんだ(僕たちが彼らの旅費や滞在費をまかない、数千人のボランティアがやって来た)。簡単なトレーニングの後で、僕たちは最低3週間は難民キャンプに滞在した。キャンプ生活のなかに正常な感覚を持ち込み、彼らと団結を示すためだ。子供と遊ぶことで、女性と話すこで、僅かばかりの医療用品の手配をすることで、またはキャンプの事情を伝えることで。テーブルやベッド、衣服といった必要な物を作るためのワークショップや学校だって始められる。

 こういった活動を大きな救済団体が組織し始めるまでには、普通長い時間がかかってしまう。だから、ここでもう一度、私は世界に向けて呼びかけたい。もし、こうした活動をやりたい人がいたら、こうした活動の実現(金銭的な援助やその他の方法で)の手助けをしたい人がいたら、若しくは、手助けが出来る人を知っているという人がいたら、行動を開始して欲しい。そして、このメッセージを君の友人たちに送って欲しい。

僕たちはきっと、ひまわりをもう一度咲かせることができる!!!

今平和を!!!

ヴァム

wam@mir.org

僕から平和を!


訳:宮田和樹/藤部明子


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